07 あまはら ふりさければ春日かすがなる みかさのやまに でしつきかも 阿部仲麻呂あべのなかまろ

現代語訳

大空をあおげば明るい月がでています。あの月はふるさとの奈良の三笠山にでていた月と同じ月なんだなぁ。

超訳(現代風語訳)

あの月もこの月も、同じ月なんだ…つながっているんだ…oh,yeah…

解説

この歌は、中国へ留学していた作者の阿部仲麻呂あべのなかまろがようやく日本に戻れることになり、「中国でみるあの月は、ふるさとの月と同じものだなぁ」と喜びを表現した歌です。

当時の先進国は中国。日本の政府は、すぐれた人物を中国へ派遣し、政治、経済、文化、新しい技術や学問、仏教などを学ばせました。

そして阿部仲麻呂も19歳のとき、遣唐使けんとうし(留学生)として、中国へ派遣されました。

その頃、中国は唐という国で、首都の長安ちょうあんにはシルクロードからやってきた異民族たちも多く、まさに華やかな国際都市。

阿部仲麻呂は懸命に勉強し、皇帝だった玄宗皇帝に気に入られ、唐の朝廷に仕えて活躍しました。また、詩人としても才能をあらわし、当時の一流の詩人、李白りはく王維おういと親しく交わりました。

そして中国にわたって35年ほどたったころ、日本の遣唐使一行が入国してきました。阿部仲麻呂はこの機会に日本へ帰る決心をし、皇帝からも日本に帰ることを許されます。

中国の仲間が別れを惜しんでひらいた宴の席で、阿部仲麻呂はふるさとを想ってこの歌を詠みました。

春日は奈良県にある春日神社付近のことで、。阿部仲麻呂は春日神社で旅の無事を祈ってから中国にわたりました。三笠山は春日神社の後方にあります。

裏話

今でこそ飛行機で世界中へひとっ飛びできる時代ですが、当時、中国へ行くには海を越えて行かなければなりませんでした。

もちろん造船技術も未熟です。船は東シナ海の荒波にたえるほど頑丈ではありません。

時にはとんでもないところへ流されたり、難破して海の藻屑と消えたり…と、二度と日本へ帰れなかった使者や留学生、留学僧も多く、まさに命がけの留学でした。

そして、阿部仲麻呂が日本へ帰るためにようやく乗り込んだ船はというと、暴風雨にあって難破し、ついには日本に戻ることができませんでした…。

そして阿部仲麻呂はその後日本の土をふむことなく、中国で亡くなりました。

「日本に戻りたい」という仲麻呂の願いは叶うことはなく、この歌は異郷に住む日本人の永遠の望郷歌となったのです。

阿部仲麻呂あべのなかまろ(698?~770)

遣唐使(留学生)として中国(唐)にわたり、唐の朝廷に仕えました。そして日本へ帰国できないまま、唐で亡くなりました。